Date:2024年09月15日(日)
Orchestra:新日本交響楽団

I.ストラヴィンスキー 交響曲ハ調
I.Stravinsky / Symphony in C
ロシア人作曲家の中でショスタコーヴィチはどのような時代に生きたのだろうか。
チャイコフスキーはショスタコーヴィチの祖父の時代に生きた。帝政ロシア皇帝の寵愛を受け、国の至宝と崇められた。厚い文化保護の中、リムスキー=コルサコフなどの優れた音楽家も多数輩出した時代であった。
ラフマニノフやストラヴィンスキーは父の時代に生きた。ラフマニノフはロシア革命直後に危険を察知し、海外に脱出してアメリカで活躍する。ストラヴィンスキーも同時期にスイス経由フランスに落着き、ココ・シャネルに家に住まうなどして、最後はニューヨークで没している。
祖父や父の生きた時代とは違う。11歳の時にソビエト政権が樹立されたショスタコーヴィチは「ソ連の作曲家」だった。15歳の時に書記長となるスターリンとの「あくことのない確執」にその後の人生の大半を支配された。
友人・親類たちが次々に粛清の嵐の中で命を落としていく中、社会主義の忠実な僕であること、大衆に受け入れられ、当局の広告塔たる作曲家であることを強要される。
「交響曲4番は初演できず、オペラは叩かれ、もう殺されるかもしれない」と友人に語っていた。
その後交響曲第5番、7番が評価されたが、大作曲家たちの9番に匹敵する大曲を期待していたスターリンに対し、ハイドンを思わせる軽妙洒落でかつ戦争への痛烈な皮肉が込められた短い交響曲第9番を作曲する。これによりソ連当局より要注意人物とされ、収入は激減し、逮捕の危険にさらされることとなった。
隔年のように作曲していた交響曲はその後8年もの間、発表していなかった。
しかし、最高指導者スターリンが、1953年に世を去ると、待っていたかのように作曲に着手し、交響曲第10番を発表した。今やこの傑作は5番に次いでよく演奏される代表作となった。
「スターリンを神格化する曲をわたしは書けなかった、まったくできなかったのだ。第9交響曲を書いていたとき、 自分が何に向かって歩いているのかを知っていた。しかし、それでも音楽で、10番の中でスターリンを描いた。第二部のスケルツォは、おおざっぱに言って、音楽によるスターリンの肖像である。」
この作曲家の思い出を窺い知ることなどできない。戦争への批判、革命の犠牲者への鎮魂もあれば、純音楽的な美への衝動もあるはず。しかし、ここで事実だけを付け加えるならば、第3楽章と第4楽章にみられる名前の刻印である。
第3楽章にだけホルンのソロで登場する「E-A-D-A」の音型。この真ん中3文字をイタリア読みすれば、「E-l(a)-mi-r(e)-A」、エルミーラという当時思いを寄せていた生徒の名前になる。彼女への手紙の中でこの動機を第3楽章に使っていることを書いている。
そして第3、4楽章に出てくる「D-S(Es)-C-H」の音型。これは自分の名前をドイツ語で表記したD.Sch〜の最初の4文字を音名として読んだものだ。
約24分かかる第1楽章は粛清だれた仲間への鎮魂や圧政に苦しむ民衆の姿があるのかもしれない。それに比べて約4分で終わってしまう第2楽章は冒頭の弦楽器による突き刺すような激しいコードから始まり、機関銃射撃音の小太鼓を伴って権力欲に満ちた暴君の肖像をマグマにような怒りの中で描き切る。
そして、第3楽章で思いを寄せる女性名をホルンソロで刻印し、第4楽章では自らの名を乱舞させて音楽的勝利の凱歌を歌い上げている。すっと求めていた精神の開放がこの作品後半にみられる。
1953年12月ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルで初演された。聴衆はどのようにこの曲を聞いたことだろう。
「雪どけ」が近づく安堵と期待だろうか、いやひょっとしたら、また現れるかもしれない、このロシアが産む征服欲にまみれた危険な暴君の誕生に、気をもんでいたのかもしれない。
第1楽章 Moderato
第2楽章 Allegro
第3楽章 Allegretto
第4楽章 Andante – Allegro
引用:パンフレット